● 作家概要


歌人、詩人の与謝野晶子は、明治11年(1878)大阪に生まれました。
本名は「しよう」です。
少女時代から家業の店番のかたわら文学書に親しみ、
浪華青年文学会の機関誌に発表した詩歌が「明星」の与謝野鉄幹の目にとまり、以後「明星」に短歌を発表するようになります。


明治34年東京へ出奔して鉄幹と一緒になり、
その年「みだれ髪」を刊行し、
以後、「恋衣」「舞姫」など数多くの歌集を出します。
大正期には「人及び女として」「激動の中を行く」等の評論集を刊行し、ほかに自伝的小説「明るみへ」があります。


大正10年、西村伊作、河崎なつ等と文化学院を創立して学監となり、
提唱していた女子教育の実践にたずさわり、源氏物語などの講義を行ないます。


さらに古典の現代語訳の仕事にも手をつけ
「新訳源氏物語」「新訳栄華物語」などを編んでいます。

昭和17年に63歳で亡くなりました。


晶子には、「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は…」の歌で知られるとおり、
鎌倉を詠んだ歌が数多くあります。
有島生馬邸や友人の別荘を訪れるなど、たびたび鎌倉に来遊していました。


大阪府堺市生まれ。
旧姓は、鳳(ほう)。
本名は、志よう。
1900年(明治33年)與謝野寛(鉄幹)によって創立された新詩社の社友となり、
その新詩社の機関誌「明星」に短歌を発表。
翌年、処女歌集「みだれ髪」を刊行。
浪漫的な情趣をたたえた「明星調」は当時の青年層から熱狂的に支持された。
與謝野寛との結婚後は、「小扇」「舞姫」「夢之華」などの歌集をあいついで刊行し、歌壇に女流歌人の第一人者としての名声を確立した。


明治四十年代から大正期にかけての歌集・詩歌集に、「常夏」「佐保姫」「春泥集」「青海波」「夏より秋へ」「朱葉集」「火の鳥」「太陽と薔薇」などがある。
昭和に入ってからも作歌活動は続き、「心の遠景」「白桜集」(遺稿)などの歌集が刊行されている。
また、上記の短歌、「君死にたまうことなかれ」をはじめとする詩や小説、童話のみならず、源氏物語などの古典研究、婦人問題に関する評論活動、文化学院をよりどころとした女子教育など、多方面にわたって活躍する。


与謝野晶子(よさの あきこ)  
歌人・詩人・教育者・古典研究者・ジャーナリストなど
明治11(1878)年12月7日-昭和17(1942)年5月29日。
大阪府堺市の中心にあった和菓子商の家に生まれる。
店の帳簿つけや店番をする傍ら古典文学に親しみ、
弟とともに短歌結社に入会。
明治33(1900)年文学美術雑誌「明星」に作品を発表し、与謝野鉄幹と出会い
翌年上京、結婚。


その年に刊行した処女歌集『みだれ髪』で多くの注目を集め、「明星」の代表歌人となる。
その後も多くの詩歌集を刊行、「君死にたまふこと勿れ」や「山の動く日」などの詩も発表。
100号まで続いた「明星」廃刊後、夫とともにヨーロッパ旅行に出かけ、日本女性の未熟さを感じ、帰国後は女性として人間としての権利に焦点をあてた評論集を刊行、文化学院の創設にも深く関わるなどの教育活動にも力を注ぐ。


また、幼少時代より親しんでいた『源氏物語』の現代語訳を3回も手がけ、
晩年にはほぼ全国を旅して多くの歌を残している。
生前には5万首ものを歌を残したと言われ、23冊の詩歌集、15冊の評論集を刊行するだけでなく、小説、随筆、童話、戯曲など幅広い作品を手がける。


この幅広い活動をしながら、13人もの子どもを生み育てたのであった。 


「情熱の歌人」と呼ばれた晶子は、近代文学史上屈指の女性であるとともに、
同じ文学者鉄幹(寛)の妻であり、
11人の子どもたちの母でもありました。


明治34年(1901)に出版された「みだれ髪」は、鉄幹へのあふれる愛と青春のみずみずしさを歌いあげ、若い世代の圧倒的な支持を得て浪漫主義の代表作となりました。
また、生涯を通して「源氏物語」をはじめとする古典文学に傾倒し、その現代語訳に情熱を注ぐ一方、女性の権利に焦点をあてた評論も多く著し、女性教育の分野でも積極的な役割を果たしました。


幅広い分野に次々と挑戦し女性の自由と自立を求めて力強く生涯を送った晶子の魅力は尽きることがありません。