● 作家との思い出


カインの末裔」「或る女」などの作品で白樺派を代表する小説家として、またニセコ町に所有する農場を解放させた思想家として、あるいは、演劇界、美術界にも大きな足跡を残した、北海道文化にとっては欠かすことのできない人物、有島武郎
彼は、1878(明治11)年東京都小石川区に生まれ、父は大蔵省の関税局少書記官、母は維新の戦乱に徳川幕府を助けた南部藩士の出と言う名門の家系に育った。


岩内への帰途、札幌で開かれていた東北帝国大学農科大学(現北海道大学)の「黒百合会」第3回展に訪れた木田は、有島の描いた「たそがれの海」に深く感銘をうけた。
有島は、当時ヨーロッパ歴遊から帰国し同大学予科の英語教授となっていた。


その数日後、木田はありったけの絵を抱えて、偶然見つけた豊平川の右岸にある有島の家を訪ねる。
ぶっきらぼうに「絵を見てもらえますか」という木田に、初め好印象を抱かなかった有島の心はその絵を見た途端一転した。
「個性的な見方をしている。」


有島武郎の作品は、その秀作の多くが「カインの末裔(えい)」「生まれ出づる悩み」などに見られるように北海道に取材したものである。


そして、彼は「北海道に就(つ)いての印象」というエッセイの中で、「私は前後12年北海道で過ごした。しかも私の生活としては一番大事と思われる時期を、最初の時は19から23までいた。2度目の時は30から37までいた。それだから私の生活は北海道に於ける自然や生活から影響された点が多いに違いないということを思うのだ」と記している。
この12年間は、有島が学習院の中等科を卒業して札幌農学校に学び、更に母校の教授となって過ごした時期である。<< 永住を決意 >>

札幌農学校を卒業後、志願入隊、アメリカ留学、訪欧などを終えて有島が再び札幌の地を踏んだのは6年後の明治41年
東北帝大農科大学に変わった母校で英語を教えるかたわら、2、3年後から本格的な文筆活動に入っていった。


大正2年8月、彼は永住を決意し、「その家は堤の下の一町歩程もある大きな林檎(りんご)園の中に建ててあった」(『生まれ出づる悩み』=現・白石区菊水西町1丁目)の借家から新築の家に引越した。
場所は北12条西3丁目である。

有島自身の設計によると言われる洋風の家は、現在、北大大学院生の寮として、大学村と呼ばれている東区の北28東4に移されて健在である。


木造2階建て、10の部屋をもっているが、寮となっている現在でも有島にちなんだ名前が各部屋につけられている。
1階には、照光、松嶺、遠友、共生、シュヴァネン、ファンー、
2階には白樺、星座、泉、残照、小灯と。


「私が25歳のころ、有島邸にはよく御用ききに行っていました。ある日、かん詰の注文をうけて日本品を届けたら、有島夫人が外国品を─と言うんです。英語が読めないと言うとローマ字を習えってすすめられましてねえ。ついに毎日、30分ほどローマ字を習うはめになりました。それにしても、あの家は当時では珍しい水洗式のトイレでハイカラなものでしたね」
北12西3、有島邸があった一角に住む上井源蔵さん(91)は遠い昔を懐かしんで語る。

永住を決意して建てたこの家から、妻の病気のために有島が去ったのは大正3年のことである。
(広報さっぽろ北区版 昭和52年3月号掲載)